菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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20.村八分の掟さえ守れない人間は組織では生きて行くべきではない

昔から村八分という言葉があります。村八分とは「たとえ村人との間に没交渉の状態であっても、締め出されている人の家族で火事と葬式の二分だけは村としての付き合いを行う」というものです。即ち、たとえどんなに啀み合い仲が悪くても最低限の人間としてのモラルは守ろうという事だと思います。こういう村八分の掟に似た事は、医局或いは会社などの組織構成体にも適応されます。医局や会社はいろいろな人間が集まっております。それらの人間がうまく機能して円滑な組織運営が成される為には、最低限の条件があります。それは、あるレベル以下のことは決してしないという相互の了解です。

たとえば盗みはしない、婦女暴行はしない、相手を後ろから刺すようなことはしない等です。例え思想や心情が相入れなくても、医局や会社という場ではその組織の最低限の就業規則さえ守ればうまくやっていける筈ですし、そうあるべきです。言葉を変えて言えば、組織に思想や宗教その他、セクトを作ったりするような動きがない限り、組織から人間をはみ出させてはいけない訳てす。

私自身には、この医局については苦い想い出ばかりです。やってはならない村八分の掟破りという例を、私自身の身に起こった事について述べてみます。私がこの医局と言う名の組織を運営していた自治会から、以前除名されたことがあります。しかし、この時は送別会はして戴きました。医局を運営していた自治会が私を除名したにも拘らず、送別会というセレモニーだけは守った訳です。即ち、村八分の掟は一応守った訳です。

しかし、昭和55年大学を追われて昭和63年1月に私がこの医局に戻って来た時、私の歓迎会は行われませんでした。私の歓迎会が行われたのは、3月に医局員が就職して辞めて行く時に付け足しでなされたものです。この事実は、その当時の医局には以前にはあった村八分の掟さえ守れないならず者の集団と言われても仕方のない程堕落した連中が、組織を運営していた訳です。私の歓迎会では、それに加えて私の挨拶を妨害するような野次さえ飛びました。私は、その時堅く心に誓いました。必ずこの医局を潰して社会的に認知されるような集団としての医局づくりを「私にできるだけの力でやってみよう」と。今となって考えれば、私に力を与えてくれた出来事でした。しかし、これはしてはいけないことなのです。

もう一つ村八分の掟さえ守れなかった事例を話します。私がカナダから帰って来た時、私はクリニックから締め出されました。クリニックの集まりに私に声を掛けない訳です。私は、最初なぜ声が掛けられないのかが判りませんでした。しかしそれが一部の人間の意識的な行動だと知った時、私は医局を辞める事を決意ました。しかし、翻ってみればこれも私の闘志に火をつけた意味では歓迎すべき事だったのかも知れません。似たような話しがいくつもその当時にはありました。一部の人間に従わない者には声を掛けない、などは日常茶飯事の事でした。

私の現在の医局運営の要は、このような事は私が主宰する医局においては、決して私の職を賭しても阻止すべきことです。即ち、イデオロギー・政治・宗教は決して医局に持ち込まない。医局はある目的の為の機能集団であって、その場は誰にでも提供される。但し、あるレベル以下の人間は決して自分の医局には置かない、などの事を自分自身に科しています。

だから医局に集う人間は、やはり最低限村八分の掟を守らなければなりません。何をしても良い、何を言っても良い訳です。但し、やってはいけないことだけはしてはいけません。「ならぬものはならぬ」なのです。人を影で誹謗したり、表と裏でその行動を変えたり、フェアーでない事はすべきではありません。それがお互い一つの組織に集う場合の礼儀だと思います。

 

 

 

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