菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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90.無い物を憂いること勿れ、ある物に感謝せよ

私は、一般病院で研究を続けてきた関係上、研究を遂行する上で経済的な基盤がないこと、設備がないこと、あるいは人材がいないことなど多くの困難に直面してきました。しかし、何とかそれを克服して研究を続けました。歯を食いしばって研究を続けていると、その結果としてお金も人も設備も徐々に増えてきますし、その結果、更に良い循環が生まれてきて研究が進み、その研究が更なる人脈や金脈を生み、研究面でもプラスがどんどん増えてきます。

私は、教職に就く以前そのような環境にあったので、「研究をする上で最も辛いのは金が無いことだ」ということを身に染みて感じてきました。ですから研究をする上で金の心配だけは医局員にさせたくないという思いが人一倍強く、教授に就任してからは懸命に金を集めることに努力をしました。でもその結果、思いがけないことも見聞しました。

研究費を心配したことのない医局員にとっては、何時の間にか金の有り難さがわからなくなっているように見受けられます。ここがなかなか難しい問題です。金が不断にあることが当たり前になってくると、金があることへの感謝の気持ちが全くなくなってきてしまいます。伝票1枚で機械が購入されてくると、機械を手荒に扱って壊すことに何の罪悪感も覚えなくなります。コピーやファックスの購入費や維持費が何のチェックもなく使用出来るようになると、恰もそれらの機器を維持するための金は天の何処からか降ってくるような錯覚さえ覚えてしまいます。まるで、世の中には自分達の為に赤十字奉仕団のような慈善団体がついているかのような気にさえなっているのではないかと思います。

金の心配はさせたくないという思いが、結果的には金の有り難みをわからなくしてしまうという一面も持っているのです。刻苦勉励で1代で財を成した人が自分の子供には辛い思いをさせたくないということで、結果的には2代目の馬鹿息子が出来るのと全く同じような状態です。

最近も色々と考えさせられることを目にしました。私は僻地病院に勤務して、その僻地病院をついに移転・新築ということまで漕ぎ着けました。私にとっては夢のようなことです。しかし昔を知らず、現在その病院で働いている人間にとっては、移転・新築は当然の帰結で、これだけ患者さんが多くこれだけ頑張っているのだから、移転・新築は当然である、ということになってしまうのです。そんな時に出てきたのが理学療法士を2人採用してくれという要求です。私にとっては2人でも3人でも採れればそれは最高です。それが理想です。しかし僻地病院で0からスタートした私にとっては、先ず1人の理学療法士のポストを県が認めてくれただけでも私は満足なのです。

他人や組織に何かを要求する時には2つの方法があります。1つは、現在これこれの物が無いから、あるいはこれこれの人が無いからこれを充足してくれという方法です。もう1つは、無い状態で懸命にやって何らかの実績を挙げたうえで、監督官庁なり、上司にその実情を見てもらって、やはりこれでは何とかしなくてはならないと思わせるか、無言のうちに数字で納得させてそれを要求する方法です。会社は勿論、県や国でも多くの場合先行投資はなかなか出来ません。大変な矛盾ではありますが先ず実績を作り、「これではなるほど、人や金が要る」ということを納得させて初めて人や金が付くことが普通です。

また、全く別な仮説を立ててみましょう。私も含めてよく大学の人間は研究費の不足を嘆きます。しかしもし、県や国が「それではあなたが好きなだけ人や金を用意しましょう。そのかわりきちんとした業績を挙げて下さい」、或いは具体的に目標を提示されて「金と物はあなたの要求するだけ準備しましょう。そのかわり達成義務を遂行して下さい」と言われたとします。こういう状態になったら、あなたはきちんと対応出来ますか。正直言って私は自信がありません。自分の努力で何とか仕事をし業績を挙げ、その中で本当に必要な補充なり充実を要求した方が自分にも楽だし、回りも納得しやすいものです。

ですから、無いことを憂いることも大事で、それが明日への向上、或いは明日への飛躍のバネになります。それは否定出来ませんし、私自身そのようにやってきました。しかしその反面、無い状態を憂いてばかりいると回りからは時には不平不満の塊のように見えないこともありません。ですから先ずは与えられた条件で、自分の成し得る限りの努力で先ずやってみて、その結果として必要になってくる物や人を要求した方が自分自身も納得出来ますし、回りも納得します。「無いことを憂いること勿れ、先ずある物に感謝せよ」ということは心の中に絶えず秘めておかなくてはならない大事な事なのではないでしょうか。

 

 

 

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