菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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116.悲しみの数だけ優しくなる

人生の中で悲しみや苦しみがなければ、どんなにいいと思う事は誰でも一度や二度はある事です。身内の死、愛する者の死、自分の至らなさの為の悲しみ。悲しみにも色々あります。或いは挫折もあります。希望が適わなかった時の挫折、愛する人への愛が届かなかった時の挫折、これらはできたら出会わなくていいと思うほどのことなのかどうかは色々なな問題を含んでいる様な気がします。これも何時か書いたかも知れませんが、思ったついでに記してみたいと思います。

人間は他人の悲しみでは、その悲しみを自分のものとして受け入れる事はできません。また、他人の悲しみでは自分を磨く事はできません。しかし喜びや楽しさだけが続いていたのでは、それと比較する悲しみや苦しみがないから、真の意味の楽しさや喜びも分からなくなります。自分で悲しみや挫折を味わうと、自分自身の人間としての深みも増しますし、悲しみの深さだけ他人の悲しみがよく分かるようになります。自分の悲しみを通して、初めて、他人の悲しみを分かるようになるので、それだけ自分自身が優しくなります。

私が言いたいのは、悲しみを経験する事によってのみその反対の喜びや楽しさもよく分かるようになるという事です。考えてもみて下さい。研究上の結論の出し方と同じ事です。悲しみが無いと嬉しさに対する比較対象が無いので、嬉しさの真の価値が分かりません。挫折もまた全く同じ事が言えます。挫折が無ければ達成感や歓喜はありません。挫折がなければ他人の挫折など分かりません。涙の枯れるほど、或いは自分の人生観が粉々に砕かれるほどの挫折を経験しないと、そこから立ち上がる事の出来る程の勇気も悔しさも出てきません。また自分や他人への優しさも備わってこないように思います。

自分が知りたいと思う数よりも、もう少し悲しみを知ってしまった人間だけが、真の優しさを持つ事ができるように思います。私は医師としての歩んだコースが尋常でなかったこともあるのでしょう。屈辱や挫折を人並み以上に味わってきました。理不尽とも思える事によってもたらされた自分の挫折は、なかなか傷が癒えるものでもありません。余りにも深い悲しみや、知りたいと思う数よりも多い悲しみ、或いは立ち直ることの出来ない程の挫折が人間にもたらす影響は、その人間を優しくしたり、深みのある人間にするだけではない事にも目を向けなければなりません。

過剰な刺激は、過剰な反応を産みます。やはり悲しみの深さや数、挫折の深さや数は程々がいいのです。しかしその程々は自分ではコントロールする事ができません。ではどうしたらいいのでしょうか。たった一つこれを癒す力は、友人だと思います。自分の一生の中に必ず自分の悲しみや挫折を理解してくれる友人を一人でも持つ事が、自分の人生にとっては大変な宝になるような気がします。自分と一生を共にする家人でもいいのかも知れません。しかし家人もさる事ながら、異性でも同性でもいいですから、自分の仕事がどんな内容かを完全に知っている同僚の中に、真の友人を一人持つ事によって、悲しみや挫折の数だけ人間が優しくなり、それが偏狭な性格を作ってしまうという事を防ぐことが出来ると思います。

 

 

 

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