菊地臣一 コラム 「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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211. 絆(きずな) の大切さを忘れていないか

限りのある時間、様々な厄介事に折り合いをつけながら、各々がベストを尽くして歩んでいるのが人生です。
しかも、その人生は非常に狭い周囲の人間との関わりから成り立っています。
我々は、教育や医療、そして組織が円滑に行われる為に課せられた仕事を日々こなしています。 毎日がトラブルへの対応か対策、と言っても過言ではありません。 しかし、それが人生であり仕事というものなのです。

そんな人生や仕事で、我々が最も大切にしなければならないものは、絆だと私は信じています。
それを忘れているのではないかと思うことが私の周辺で立て続けに起こり、危惧のあまり久し振りに筆を執りました。

我々に課せられた最大の責務は教育です。
近年、新しい教育システムの導入ということで様々なカタカナ言葉の方式が実施されています。 私は、この事自体に問題があるとは思っていません。 何故なら、我々大学人は余りにも教育に関心を持ってきませんでした。 また、教育に力を入れてもそれは評価されませんでした。
私は、それ以前の教育の基本となる理念の菲薄さに危うさを感じています。 今の教育は、教える側から学ぶ側への一方通行になり過ぎているように思います。 緻密に構成された教育カリキュラムやプログラムをみると、それらを作成した方々の御苦労に頭が下がります。 学ぶ側にそこまで思い至っての感謝の念があるでしょうか。 一方、求められている責務である教育に関心が薄い教職員も一部に存在し、何の哲学も持っていない、と言わざるを得ないのも一面の真実です。

教育とは、「学ぶ側のひたむきな気持ち」 と 「教える側の熱い情熱」 がぶつかり合って初めて成立するのです。 双方の納得のいく学び、そして教育には、様々な工夫が必要でしょう。 しかし、その前提として、お互いに真剣勝負の気持ちで臨まないと、良い結果は得られません。
古いと言われるのを承知で書きますが、「教育とは一緒に行動する」、 これに尽きると私は思っています。 一日中一緒に行動すれば、プロの職業人は何に苦労して、何に喜びを感じ、プロとして何が求められているのかを自ずと認識出来るからです。
楽をして学ぶ、 などという近道はありません。 教育や医療現場の矛盾や不条理を批判することは誰にでも容易いことです。 そんなことにいちいち文句を言って何もしなかったら、一生はあっという間に終わってしまいます。 寝る間も惜しんで懸命に努力している若者をみて、教える側がその姿を愛しいと感じ、何とか一人前にしてやろうと思い、教育者として求められている以上の時間と労力で教え慈しむというのが本物の教育です。

自分の置かれている環境に文句を言うことで、一時間、一日を費やしている人には良い警句があります。
「人生は他人の愚痴をゆっくり聞いてやれる程長くない」 (図書館の美女、ジェフ・アボット)、

そして 「人間の生命は 『ひとつ』 と数えるひまもない」 (ハムレット、シェークスピア) です。

仕事も同じです。 我々医療に携わっている人間は、ライフラインや公共交通機関のスタッフと同様、矛盾だらけの中で淡々と交代制をこなしています。 こうした人々の日々の継続した営みによって、辛うじて支えられていることを知っています。

我々は、時々こんな経験をしたことがある筈です。 「失ったものでしか語れないこと」 と同様に、「失わないと気付かないこと」 があることです。
以前、長年勤務して戴いた職員が退職しました。 退職記念会の時に、私は 「居なくなって初めてその人の存在の重さが分かる」 と挨拶しました。 事実、その人の居なくなった職場のスタッフは、職場での円滑な機能維持にその職員が如何に大切であったかを初めて認識しました。
残念ながら、世間とは万事そんなものです。 何の支障もなく、世の中が動いているとそれが当たり前に思ってしまう、その陰にある名も知らぬ人々の努力に思いが至らない、恐いことです。 彼の在職中に、絆を意識してスタッフはどれだけ彼に敬意を払い、信頼を表現していたでしょうか。

このようなことを考えると、教育や仕事をするうえで最も大切にしなければならないのは、絆です。
その絆は、相手に対する敬意と信頼から成立しているのです。 双方のどちらかに、そのどちらか一方が欠けてもうまくいきません。 勿論、絆には年齢、地位、そして肩書きは全く関係ありません。
今という混迷の時代、「自由」 が「自分勝手」 に、「権利」 が 「我が儘」 に変貌してしまっています。 もう一度、絆に思い至って欲しいのです。
勿論、円滑な人間関係の維持には 「頭を下げないことがプライドではなく、頭を下げたあとに残るものが (真の) プライド」 (送り火、重松清) を認識しておくことは当然です。

絆の大切さ、真のプライドの意味、そして世の中は多くの人の黙々とした陰の支えの中で辛うじて何事もなく動いていることを知っている人間は、何か問題が発生したとき、相手を指差して指弾するのは躊躇してしまいます。 私のように、子供時代に戦後の貧しい時代を生きた経験から、「所詮、人間 (ヒト) は曖昧な偽善の上に立って生きている」 ということを肌身で知っているからです。

(2009.12.08)

 

 

 

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