菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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77.素朴と無神経は紙一重

都会の人やマスコミは素朴さの良さを謳いあげます。しかし、田舎の素朴さは良いと言いますが、ではそういう都会人は何故、田舎に住まないのでしょう。田舎に住まない理由はたった一つ、それは田舎は不便だからです。文化的な興味も満足させられない、生活も不便である、人の目が煩わしい等色々あると思います。しかし、集約される事は不便だからです。この様に人は素朴さを謳いあげ、素朴さを持つ田舎を賛美しますが、よく注意しなければならない事は、我々が謳いあげる素朴さの良さというのは、充分に洗練され尽した上での素朴さです。ですから、全く配慮のない素朴さは無神経とあまり変わりありません。

私が僻地病院の病院長に東京から赴任した時、2,3日後に、患者さんが8時頃私の宿舎を突然訪れ、漬物を届けてくれました。私は最初その方が誰かを全く判りませんでした。それはそうでしょう。赴任して、2,3日で患者さんの顔が全て覚えられる筈もありません。しかし、患者さんにしてみれば、一人で大変だろうと単純にそう考えて私に漬物を届けてくれたのでしょう。ですから、その行為そのものは素晴らしく善意に溢れたものです。

しかし、私の立場にしてみれば、宿舎に帰っての自分一人での時間というのは、掛け替えもなく大事な時間で、裃を脱いでホッとしている時です。そこに仕事が剥きだしの形で顔を出されるとやはりへきへきします。本当の素朴さはいいなあと相手に思わせる為には相手の環境、相手の都合、こういったものに充分配慮し尽して、その上でそういう善意を届ける事が必要なのです。そうすると、その素朴さが非常に生きる訳です。

もう一つ例を挙げましょう。例えば日本の茶室です。日本の茶室は紙と土と木でしか出来ていません。素材そのものは乞食小屋や低開発国にある牛小屋や馬小屋と全く変わりありません。しかし、そこに見られる素朴さ、単純さは計算しつくされている素朴さです。ですから、その素朴さが素晴らしく見えるのです。管理された自然が素晴らしいのと同じです。そこに計算や考え抜いたさり気なさがないとしたら、それは牛小屋や馬小屋と全く変わることがありません。

この様に素朴さと無神経は紙一重です。素朴さが素晴らしく感じられる時にはその裏に秘められている意図を充分に感じ、それに思いやる事が大事です。ですから、最も素晴らしいことは、その計算や配慮が全く感じさせない様な素朴さが最も世の中で素晴らしい芸術なのではないでしょうか。

それは仕事にも当てはまります。血みどろの努力をし、自分の身体を削る様にして努力をし、一流と言われる立ち場に立った人間の挙手動作には2つある様に思います。一つはその痛々しいまでの努力や苦労が身体全体から感じられる人、或いはそれを「俺はこれだけ努力したんだ」「俺はこれだけ苦労しているんだ」と言う事を判ってもらいたいと思う人です。もう一つのタイプは、全くその様な苦労や努力を微塵も感じさせない人です。感じさせない或いは見られないから、その人には努力も苦労もなかったのかというと、そういう事ではありません。その裏には想像を絶する様な努力や苦労があったでしょう。

さて、回りにいる人の心を感動させるのは、どちらでしょうか。おそらく後者だと思います。人は所詮他人の努力や苦労は見たくないものです。そういうのを見せられるとつい反発したくなります。それは人間の感情です。だとしたら、回りの感情の小波を立てない為にも努力や苦労の跡をみせず、さりげなく振る舞う事が本当の一流ではないでしょうか。それは素朴に通じるわけです。

 

 

 

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