菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
83.「個」を主張する前に先ず「形」より入れ
個性あるいは個人を主張することが持て囃されています。しかし個性を出したり、個人を主張するにはその前提が必要です。それは最低限相手と共有する共通認識の存在です。日本がこのように戦後短期間のうちに復興した理由の一つは、良い意味での横並び主義、全体主義があると思います。ですからオイルショックでもドルショックでも柔軟に素早く一個のMassとして対応出来る訳です。しかしそれを可能にしているのは、一つの物事に対しての共通の価値観なり共通の認識があるから可能な訳です。
もう一つの例を挙げてみましょう。ピカソの絵が歴史に残る絵かどうかはひとまず置くとして、ピカソの絵は抽象画の一つの典型です。ではピカソは最初からあの様な絵を書いたり、あるいはたまたま書いていて、そこには計画性や念入りに計算された意図が入っていないかというととんでもない話しで、全て入念な設計の基に制作されている訳です。彼のデッサンはむしろ有名になってからの絵より高く評価されている面もあります。ピカソにとっては非常に類い稀なる才能を示すデッサンの技術があって、その技術を土台にあの個性が花開いている訳です。
では我々医師はどのように個性を主張、あるいは個性を発揮したら良いのでしょうか。先ず徹底した模倣から入ることです。一つ一つ自分で理解出来た順に自分の身に付けて行くということでは、日暮れて道遠し、必要な全てを身に付けた頃にはもはや医師としては引退の時期になっているかも知れません。今は何故それが必要かを理解できなくても、先ずその形を覚えることです。それによって何時か何故それが必要かが会得、あるいは理解出来る時期が必ず来ます。徹底した模倣をしているうちに、自分が知らないうちに、必ず自分のカラーが出て来ます。
最初は上司や先輩のミニコピーで、ひたむきに努力しているうちに何時の間にか個性が出て来るものです。それが個性というもので、その基盤には血と汗の滲む基礎的習練があるのです。それが基本にあれば何ら意識しなくても個性は出て来るものです。個性は自分で気が付くものでなくて他人が気が付くものです。
何度も言ったように個性は、お互い共通する基盤の上に立って初めて花を開かせる訳です。個性のみが良いと思うとそれは大きな誤解です。何故なら自然が良い、素朴が良い、手を入れない方が良いと、環境や個人に対してあるいは教育に対しても言われます。本当にそうでしょうか。では全く手の入れない自然を人間は愛せるでしょうか。全く躾をしない人間はどうなるでしょうか。これは歴史が証明しています。オオカミ少年がそれです。あのオオカミ少年は結局人間の生活に戻れずに死亡した訳です。ですから白紙の上にどんな字を書いても良い。しかしそれだけでは対人関係や社会生活を営む上では駄目です。
白紙に何を書いても良いが、書くのは字でなくては誰もその人間の意図は汲み取れません。ですから、個を主張する前には先ず形より入ることです。何故そのような形が必要かはその時は理解出来なくても良いのです。後から必ず何故その形が必要であるか理解出来るからです。先ず徹底した模倣から始めましょう。