菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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130.No problem is no progress

自分の持っている知識や技術がある水準に達してしまうと、日常臨床は自分の能力の裡に処理出来ます。ここにこそ我々医師の落とし穴があるのです。一人前になってからの 10年間、自分の知識や技術を蓄積することなしに診療をやっていたとします。勿論この間平均ないしそれ以上の診療水準は維持出来ます。そうすると、何も困ることはないので、これでいいと錯覚してしまいます。

一人前になって15、6年が過ぎると、学会や雑誌で話題になる知識や技術が突然理解不可能になります。ある日突然分からなくなるのではなく、その前の10年間のブランクがその時点になって効いてきているのです。こういう場合、その医師は新しい知識や技術に批判的になるのが一般的です。医師の場合、更に困ったことに、それでも何とか誤魔化していけるのです。こうなると、医師は外面とは裏腹に内面的には不安と不満を抱え、鬱々とした日々を過ごさざるを得ません。

こういう医師の抱えている問題を解決するには二つしかありません。一つは、自ら積極的に新しい知識や技術に接し、問題意識を持ってこれらに取り組むことです。日々これを繰り返していれば、日進月歩の医学に遅れることはありません。しかし、忙しさもあり、言うは易く、行なうは仲々のものがあります。もう一つは、絶えず若い人と接していることです。若い人は、我々が現在持っている知識や技術が出発点になっています。ですから、彼等と接していると、嫌でも最前線の医療に取り組むことになります。若い人を教えるということは自分を磨くことにもなります。

最近、医局であった例を考えてみます。20才前後の成長軟骨障害による膝内反外旋変形の症例が入院してきました。脚長差はあるが2cm以内なので、骨切り術による矯正術を予定しているとの話でした。私の友人の一流と目されている専門家の意見でもあると付け加えがありました。私は何故脚延長器を用いないのかと質問しました。彼等には脚延長器の適用という選択肢は頭になかったようです。私にすれば、このような症例こそ脚延長器による矯正の適応ではないかという思いがあったわけです。勿論、骨切り術でも充分対応出来るのは分かりますし、それが平均的な答えでしょう。しかし、現在は、少ない侵襲で脚長差も同時に解決してしまう脚延長器の適用は、当然討議に登って然るべきです。

このような症例に脚延長器を装着して治療するには、我々の医局には新しい挑戦であり、準備や知識が要求されます。「骨切りでも出来る」を採るか「新しい治療法に挑戦してみる」かは、その人間や組織がどれだけ意欲的かに依ります。何の動機付けもなく、自らの知識や技術で充分対応出来る状態での新しいことへの意欲や挑戦は、余程の意思がないと出来ないし、まして持続しません。新陳代謝のない組織が時と共に停滞し、没落していくのはこの為です。

このような状況に対して、私の執った対応は、主治医を脚延長器に力を入れて研究している大学に派遣することでした。旧知の講師へ電話を入れて教示を依頼しました。主治医にとっては、未知の組織、未知の人への接触は大きなストレスだったでしょう。しかし、彼や我々の教室は、これにより又新しい技術と知識、更にはKnow Howを手に入れたのです。もし、このような行動をとらなければ、今まで通りの脛骨骨切り術で対応して、何事もなく時が過ぎていったことでしょう。

我々医師は、日進月歩の医学に随いていかなければなりません。勿論、すべての変化が今までのものより良いかどうかは分かりません。しかし、自分並びに自分達の教室を常に前進させていく為には、兎に角新しいものにトライしてみなければなりません。トライして複数の選択肢を持ったときに初めて取捨選択の必要が生じてくるのです。挑戦しないで、批判ばかりしていると「隠居の茶飲み話」、「居酒屋の国会」になってしまいます。

「出来るが、やらない」はいいですが、「出来ないからしない」は困ります。「出来ないからしない」とは言えないから、「あれは良くない」と言いがちなのが医師の常です。年はいくつになっても、絶えず好奇心を持ち、知識・技術の習得に励み、自分の経験に照らしてこれらを取捨選択していくべきです。これが生涯勉強と言われる医師の姿ではないでしょうか。

 

 

 

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