菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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163.仕事のけじめは最後まで

今日は、私が教授就任以来、営々として築き上げてきた個人としての、或いは組織としての行動をするうえでの美意識が、足元から崩れるような事態をみてしまいました。私が外へ出かける前に医局に行ってみると、MRの方が秘書に「東北整災のプログラムに使用した広告の版下を返して欲しい」と言うのです。その言葉を聞いた時には、驚きと怒りに我を忘れてしまいました。

東北整災といえば、既に医局が会を主催して1ヶ月半が経過しています。それなのに、広告の出稿を御願いして各社から提出して戴いた広告の版下を未だ返していないというのです。この様な、画竜点睛を欠くことに、私は怒髪天を衝く勢いで腹が立ちました。私が、何故この様な行動に激しく腹が立つかは、本当のところはよく分かりません。恐らく自分の性格の問題が一番でしょう。それともう一つの理由は、自分自身、或いは組織を零から独力で、世界に通用する個人や組織にする為に、鑿で一本の木から彫刻を掘り出すように努力を重ねて、個としての、或いは組織としての行動様式を作ってきたという思いがあるからでしょう。

プロとしての一流は完璧さを目指さなければならないのです。こういう世界では、画竜点睛を欠くことが全てを零にしてしまうことの怖さを、私自身が身を以て知っているからです。他人は、自分も含めて、結果しか見ません。最後の詰めの甘さで全てが水泡に帰してしまっても、他人はそれまでの苦労はみようとはしないのです。そこに怖さがあるのです。

私は接待を含めて、仕事は最後の最後が一番いい加減になりがちで、つい見逃したり、するべきことをしなかったりすることが多いので、その点を気を付けるようにと何度も言ってきており、自分自身も注意してきました。何故なら、我々のホスピタリティに対して、最後の詰めがないために相手は並の感激しか味わなかったり、印象深くは思わず、過不足ないとしか感じないのが普通です。努力の甲斐もあって、国内外を問わず本学へ訪問者が来た時には、皆が医局員の振る舞いの愚直な礼儀正しさや爽やかさや痒いところにまで行き届いた気配りに感激して、良い印象を持って帰ってくれます。

この様な好印象は、医局員の国内、海外留学時、或いは整形外科としての色々な企画の時に有形、無形に生きてきます。しかし、今日みた様な、最後の詰めを欠く様なことをしてしまっては、どんなに学会を完璧に開催しても、或いはどんなに今まで営々として評判を積み上げて来ても、この一つだけで、その評価はすっかり帳消しになってしまいます。まさに、「美名は砂浜に書かれ、汚名は岩壁に描かれる」です。他人は、良いことはいつまでも覚えていてはくれませんが、自分にとって不愉快なことや屈辱的なことは決して忘れません。この場合にもそれが言えます。それだけに、自分達のちょっとした過ちや無礼は、幾ら注意してもし過ぎるということはないのです。現に、幾ら注意しても、後からこうすれば良かった、ああすれば良かったということが必ず出てくるのですから。

この場面を広告を提供している側から考えてみましょう。以前にも度々指摘しているように、幾ら対等な立場だと言っても少なくとも、相手には顧客に対する遠慮というものがあります。その遠慮があるために、広告の版下を他のプログラムや広告を出す為に使いたいと思っても、戻ってこない場合に、「返して下さい」とは仲々言い難いのが実情だと思います。そういう相手の立場を察して、先手先手を打って、終了後直ちに返しておけば、相手側からみれば余計な気を使わずに済むし、気が利くとも感じるでしょう。そこまで気を配ってくれるのかと感激してくれる人もなかには居るかも知れません。こうして一つ一つ、周囲の信頼関係を、個人として、或いは組織として築いていくのです。

仕事でも、接待でも、最後まで気を配ることが相手に好印象を与え、自分でも納得出来る仕事になるのです。他人を招待したら、その人が次の仕事に取り掛かるまでが招待のうちに入ります。学会の開催は、学会で使用した器材を片付け、会場を清掃して、借用した器具を元通り返し、協力者には礼状を出し、会計報告をし、そして出稿社には版下を返し、残ったプログラムは処分する。提出された投稿原稿は事務局に送付する。ここまでで一区切りであって、開催が終わった時点で開催幹事としての役目が終わったわけではありません。仕事や他人の接待は、最後までやることが自分の行動を美しいものにし、組織としての涼やかさも出てくるのです。

この場合、担当者が「秘書に任せていた」という言い訳をしたら、それは自分の責任までも秘書に任せてしまっているということになります。だとしたら、秘書の行動は即、自分の責任として、その責めを100%受け止める覚悟がなければなりません。しかし、ある教授が私に指摘してくれたように、秘書は上司の人格の代理者にはなり得ません。もし、人格の代理者になり得るとしたら、それは理想です。飽くまでもその理想は追及すべきです。勿論、その理想の追及は現在、私自身も行っております。しかし、最も大切な自分自身の生き方に対する批判や評価を秘書の行動にすべて委ねて良いのかというと、話は全く別です。

最終的に自分で責任を取らなくてはならない以上は、担当者は最後まで見届けなくてはなりません。そうしてやることが、結局は秘書を助けることにもなり、ミスも少なくなるのです。一方、秘書の立場から言えば、有能な秘書ほど、「指示されていません」とは言わないと思います。「うっかり忘れました」とか「忙しかったから出来なかった」という方が、担当者を庇えるし、八方丸く収まります。秘書が「指示されていない」と言うことは、「それなら、君は言われたことしかやらないのか」という反問が周囲から出てきます。

結局、秘書は、「無能」の烙印を押されかねません。こういう場合、上司は「秘書は能力がない」と判断しがちです。そして、秘書を雇っている人間は、忙しかったから出来ないと言われれば、人を増やすか仕事を減らすかどちらかの道しかありませんし、そこに医局との間の相互信頼関係が崩れ兼ねないものを産み出します。「時間によって仕事をしているわけではない」というのは常日頃言っていることです。

No.99 でも指摘したように、常に仕事は「報告・複命」が基本です。やはり、このトラブルはこの基本を怠ったがためのミスです。理想は、用が済み次第、広告の版下を返すことは当たり前なので、秘書が対応して「版下を返しました」という報告を担当者が受ければ良いのですが、秘書がそこまでのレベルに達していない、或いは優秀でも忘れている場合もあります。従って、担当者は版下を返したかどうか、返していないとしたら返すように指示し、人手が足りなかったらその人手を手配することが組織人としての役目なのではないでしょうか。何れにしても、組織人として、或いは個人として涼やかに振る舞うのは大変なものだと思わせる一コマです。

 

 

 

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